演奏教育とコンクール

ピアノを習得させるためにツェルニーやハノンからやらせることを私は決してしない。
あれほど悪しき習慣を日本の教育現場は、さも当たり前のように取り入れていることを私は問題視している。
ピアノ教育の基礎は合理的な腕と手の使い方、耳の使い方を徹底して教えることであり、指の独立や間違えないように弾くなどはどうだっていいのだ。
ハノンやツェルニーなどは、そういった最も大切な根本が出来てからやらせればいい。それでも私はやる必要性は全く感じていない。
ハノンのスケールが曲の中で出てくることなど滅多になく、粒を揃えて弾くなど曲の中では決してしないからだ。
ハノンやツェルニーからテクニックを学んでしまった人は、可哀想ではあるが一生かかってもショパン以降の作曲家は演奏できない。

ショパンの言葉を借りれば

完成されたテクニックとは、すべての音に細かいニュアンスをつけられること

なのであり、均一に弾くことではないのだ。そこがツェルニー・ハノンとショパンの大きな違いであり、ショパンは200年前に全てを覆したのだ。
日本は何百年も取り残されており、まずは本当に美しい響きと音楽を教師自身が体現できる必要があると思う。
知っているだけでは方法論までたどり着けず、生徒は教師の音を真似するので結局は響きのない音で演奏してしまう。

音楽教育は今まで通りで良いが、演奏教育では日本の根本から変える必要があると感じている。

そしてそれを助長させているのがコンクールであることは間違い無いだろう。
コンクールで入賞する演奏がよいとされ、教師はその音と音楽を良いと判断し、そこを目指して指導することで日本の学生は年々世界から浮いた演奏をするようになっている。
審査員自体の音や音楽の価値観が何百年と遅れているのに、どのようにして真に美しい音楽が広まるのだろうか。
コンクールと芸術は、日本においては別方向なのだ。
日本のコンクール入賞を狙ってピアノを弾くのか、真に美しい芸術に触れるためにピアノを弾くのか、それは本人次第であるが、私は初心者から専門的にやっている人まで前者を教えることは一切しない。
縁があって私のところに来てくれた人だけでも、その人その人の心の中にある美しい音楽を響きとして現実の世界に出し、時代を超えた美しさを体現してもらえるよう手伝いたいと思っている。

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