声楽とピアノ

前回ピアニズムの継承の続き

日本の声楽界に関してはヨーロッパのような教育システムがある。
それは一人一人の声が違うため、体の使い方や響きの作り方に多様性を認めているからだ。声楽での徹底した響きのレッスンは私たちピアニストも参考にしなければならない。

ソプラノ歌手に、ミレッラ・フレーニとエリーザベト・シュヴァルツコプフという方がいる。
最近、彼らのマスタークラスの動画を見ていて私が理想とするレッスンにとても近いと感じた。そのレッスンでは常に響きと体の使い方を指摘し、教師が理想とする響きの概念を生徒が理解したと感じると次に進んでいくのだ。

こちらからご覧になってください。

ミレッラ・フレーニによるマスタークラス

エリーザベト・シュヴァルツコプフによるマスタークラス

オペラとドイツリートで得意とする分野が違う二人だからこそ、理想とする響きの違いが見て取れる。
ピアノでも同じだ。響きを伝承・継承することがレッスンでの醍醐味なのだ。

響きには何百年という歴史の重みがある。デジタルの音では辿り着けない振動がある。
響きを継承することこそ、クラシック音楽家の大切な役割だ。

教師というのは、響きを繋いでいく仕事である。
その一端を担えることに幸せを感じる。

ピアニズムの継承

私が学んでいたフライブルグ音楽大学では様々な国の教授が教鞭をとっており、中でもエリック・ル・サージュ氏とエルザ・コロディン女史のレッスン内容は日本のそれとは大きく違っていた。多くの時間を体の使い方と音の質に費やすのだ。

彼らは生徒が同じ響きを習得するまで時間をかけて自身のピアニズムを伝える。
なぜかというと、その響きを体現できていないと教師の真意を生徒が理解できないと分かっているからだ。
言ってしまうと、生徒がその音と音楽を気に入らなかったら先生を変えなくてはいけないのだ。

ピアニズムを継承するということは海外の音大では当たり前のように行われており、ピアニズムが合わなかった際には先生を変える手段がきちんと整備されているところにヨーロッパの教育システムの素晴らしさを感じた。
日本の音大では教師を変えるなど大変な問題だ。芸術を、多様性が認められない場所で学ばなければならない息苦しさを少しでも早く改善できればと思う。

日本の教育現場にはピアニズムが存在していない。ヨーロッパでは多くの国の音楽を耳にすることができるが、日本人は日本人の演奏しか知らないということが問題かもしれない。多様性がなくコンクールなど見ても審査基準が枠からはみ出ないのだ。
ロシアにおいては幼少期から徹底してピアニズムを教えたことが今の芸術的レベルの高さに繋がっていると感じる。

一方、声楽に関しては日本でもヨーロッパのようなシステムが存在している。
そのことについては次回声楽とピアノで。

ショパンピアニズムの美しさ

ショパンピアニズムが定着してくると作り出した響きが自分に多くのことを語りかけてくる。
曲の声をより聴こうとすると、その曲が最も美しく響くことを求めだす。
最も美しく響きだす瞬間。そこには自然さがある。

山や川を見て美しさを感じるのは全ての人に共通していると思う。
自然さとはそんな感覚である。
近・現代を除いては演奏から鉄の香りがしてはいけないのだ。

自然界の美しさをだすためには、自然の原理を学んでいかなければならない。
拍感や打鍵も同じである。重力を利用するのだ。

ショパンピアニズムが目指すところは、自然の美しさなのだ。

省略の芸術

先日、高畑勲が監督した映画「かぐや姫」を観た。
言葉では言い表せないくらいの感動を覚え、その世界観に芸術的な美しさを感じた。
この映画では背景が限りなく省略されており、登場人物が浮き立つような効果を最初から最後まで施してあった。
細部まで書き込まれた映像では辿り着けない美しさがあり、その世界観にホロヴィッツやソフロニツキーの芸術を思い出した。

全てが精巧に描かれてしまうと、人は想像力を失い感動ではなく驚くことしかできないのではないだろうか。
私が感動を覚える演奏も、全てがくっりきと見える写実的なものではなく、大切なものだけが浮き立ってくる演奏である。
自分が演奏する時にも、特にショパンやスクリャービン、ドビュッシーでは、背景をぼかすテクニックを多く使う。
これらの作曲家は、大切なものを浮き立たせるために背景をどう描くかを常に意識して演奏しなければ曲にならないのだ。

魔法をかけるためには、全てを人に見せてはいけない。
芸術は省略なのだと教えてもらった。

音の出口

美しい音を出すときに最も大切なのは音の出口を考えることだ。
音の出口を考えると音の入り口も変わってくる。

例えて言うなら洞窟である。
今から入ろうとする洞窟があり、一つは出口がわからない洞窟。
一つは出口を把握している洞窟。

この二つで大きく変わることは、入る時の緊張感である。
出口を知らない場合は、入るときに足がすくむが、出口を把握している場合は、緊張感なく入ることができる。
出口を知っていると言うことは、入り方が変わってくるのだ。

音でも同じことが言える。
出口がない音というのは、音に緊張感があり色彩がない演奏になる。

では音の出口というのは何なのか。

それは弾いた後の手首の動きが大きく関わってくる。

腕の重さを利用して演奏しても、弾いた後の手首の動きが伴っていないと音に色彩感覚は出て来ない。
ショパンピアニズムでは、弾く前と弾いた後の意識を常に持つのだ。
その意識は手首が支配しており、全ての動きは手首で始まり手首で終わらないといけない。
ショパンピアニズムにおいての手首は、エンジンである。

空中から鍵盤の上に腕の重さを手首の動きを伴って乗せて後、手首は手前に引っ張るのではなく斜め上(鍵盤の蓋側)にあがるのだ。
ここが音の出口である。

手首を手前に引っ張る演奏もあるが、それは意識が指先にある人の場合だ。
手前に引いてしまうと響きを作る位置が低くなってしまう。
もう一段階美しい響きを出すためには指先に意識はない。
それが達成できて初めて斜め上の意識が理解でき、空中に美しい音が響き出す。