柔らかい音の出し方

多くの人が間違った感覚で柔らかい音を出そうとしていると思う。

柔らかい音は、弾いた後に手や腕を上の方向にふわりと上げることで表現できると思っているのではないか。

ここにとても大きな落とし穴がある。

私自身これが間違いであったと気がついたのは、20代の半ばである。
自分の手や腕の動きが脳の誤作動を生み実際なっている音と自分で聴こえている音に大きな誤差があることがわかったのである。

結論から言うと、下から上方向に打鍵することは、まずしない。
どのような弱い音柔らかい音であっても基本はピアノを打楽器として扱い上から下の打鍵で、「積極的に」作り出すのだ。

この積極的ということが、とても大事なのである。力の抜き加減や、腕の回し加減で柔らかさを表現するのではないのだ。

おそらく日本の教育現場でこのことを教えている方は、そういないだろう。まず教師自身が身をもって体現できていないと伝えることは不可能だからだ。
ピアノの可能性を引き出し、ピアノを歌わせるためには、語弊を恐れずに言えば

「ピアノを打楽器として扱う=上から下に叩かないといけない」

鍵盤から指を離さず、指が吸い付くようにとよく言われるが、鍵盤に指がついた状態から弾くことなど、ほぼない。

このことを理解できない方は、腕の重さなど使っておらず、間違いなく指でしかピアノを弾けていない。100年以上遅れた弾き方をしている。

黒木ピアノ教室 YOU TUBE動画チャンネルより

柔らかい音の出し方

 

ピアニズムの出発点

ピアノは打楽器だ。

小学校でも習うような内容だがこれを理解している人はどのくらいいるだろうか?

日本ではピアノが打楽器だという事を認めない弾き方をよしとしている。
歌うためには、ピアノが打楽器であったら駄目なのだ。

ピアノは打楽器であり、叩いて音がなり、レガートはそこから始まる。

まず出発地点が違うことが問題であり、それを良い音としてきた教師が未だに教育現場に大勢いる。日本はピアノの扱い方という面で世界に100年以上の遅れをとっている。

なぜ100年かというとショパンはすでにそうやって演奏していたからである。
ショパンがピアノのテクニックに大きな革新をもたらしたのだ。

日本はその革新前の弾き方をしている。

ショパンピアニズムでは、ピアノを歌わせるためにピアノを打楽器として扱う。
芳醇なレガートというのは叩くことから始まる。

ショパンピアニズムの共通点

留学中は作品を完成させていくよりピアニズムの研究に没頭していた。
ソコロフ、プレトニョフ、ババヤンの響きは今でも脳裏に焼き付いている。

研究していく中でショパンピアニズムを教えている教師を何人か尋ねた。しかし誰も明確な答えを持っていなかった。
「こういう響きで」「こういう雰囲気で」と言った抽象的なことでしか教えていなかった。
ピアニズムを学ぶときは客観性や論理性を持つべきだと私は考えている。
私はピアニズムを研究している教師は楽器と体の扱い方を教えているとばかり思っていたが、全くそうでなかった。

テクニックは言語化できないといけないというのが、私がピアニズムを教えている上で大事にしていることだ。

そして海外で多くのロシア人のレッスンや演奏を耳にし、ショパンの書いた本やネイガウスの書いた本からヒントを得てようやくショパンピアニズムの根底に流れる共通したテクニックがわかった。ショパンやネイガウスはテクニックを客観性を持って捉えていた。彼らの本を読んでみることをお勧めしたい。

その共通したテクニックというのは、

いかにピアノを打楽器として扱い、その上でピアノを歌わせるかということだ。

ここだけが多く流派が存在するショパンピニズムで唯一共通している点だ。

私はその中でも、ホロヴィッツやソフロニツキーの音と音楽が大好きでありそのピアニズムを教えている。つまり彼らが曲作りの基本としているタッチが私は大好きであり、私もそのタッチを教えているということだ。

体のどこをどう使えば楽器を一番効率よく鳴らせ、尚且つ弾く意識をしないで音を聴けるかということ。

私が教えるショパンピアニズムのレッスンでは、このことは理解してもらえるまで客観性と論理性を持って説明している。

音が伸びない

ピアノという楽器は様々な要素が重なり合ってようやく美しく歌いだすのだが、
ピアノの扱い方、体の扱い方と共に音の捉え方を知っていなければならない。

最近のレッスンでとりわけ次のことをアドバイスしている。それは音における句読点『。』の位置についてだ。

1音を鳴らす時に大事な感覚は、1音を文章として考え、『。』の位置を把握することだ。

文章というのは、文字があって最後に『。』がくるわけだが、一般的な奏法の方はこの『。』の位置がずれているのである。

ショパンピアニズムでは『。』の位置は、もちろん文の後にくる。

しかし一般的な奏法の方は『。』の位置が、このようにずれているのだ。
これをスラーの最後の音で説明するとこうなる。

一般の奏法の場合

 

 

 

 

ショパンピアニズムの場合

 

 

 

 

この違いはとても大きい。一般の奏法では、文の終わりの文字と句読点の位置が同じになっているのだ。
これでは倍音が聴けない。そして音が減衰していき、伸びていかないのだ。
音というのは常に後に響きがあり、そこまで含めて音楽を作らないといけない。
とても大切な感覚であり、これを体感できればピアノを歌わすと言う意味が少し理解できるはずである。

黒木洋平ピアノ教室 YOU TUBE チャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCPZQ_6ARInAbw2S_-25XV2Q

Des durの美しさ

以前は感じることがあっただろうか。
調によってピアノの響き方がこれほど違うことを。
平均律のピアノが調によって変わるのだ。

ショパン以前までは「和声での基本」を「ピアノ学習での基本」にも適応していた。
つまりハ長調をピアノ学習の出発地点にしていた。
今では和声的には一番簡単な調性だが、ピアノ演奏の上では一番難しい調だと感じる。
ショパンやネイガウスも同じようにピアノ演奏を考えていた。

常識として習ってきたこととは真逆なのだ。

ショパン、ドビュッシー、スクリャービンを演奏するとき、彼らが同じような音楽の発想を持っており、ピアノが一番美しく響くことを意識して作曲していたと感じる。

共通して彼らのDes durは、美しく響く。

ピアノが持っている歌の魅力をこれほど音にできる調は他にないのではないか。

Des durを演奏する時、柔らかい倍音に包まれ、何か周りの空気がトロリとまろやかになる感覚になる。