スタッカート

スタッカート=短く切る

これを言葉通りに弾く演奏を多々耳にする。

スタッカートはニュアンスの問題であり、そのフレーズがレガートではないという事だ。
短く切れという言葉は少し語弊がある。

事実、この様な演奏をすると西洋の音楽家は
「そのスタッカートは乾きすぎている」
と意見するのである。

弦楽器などの演奏を聴くとスタッカートの感覚は手に取るようにわかる。

余韻があるのだ。

スタッカートに余韻があると、日本人の感覚でいうと「鈍い」や「重い」と言った感想を持つ人が多くいるが、
これは間違っている。

スタッカートには余韻があり、心地よいのだ。

タッタッではなく、ポンポンなのだ。

日本人の拍感

私たち日本人の大きな課題

多くのアジア人、特に日本人は、拍というものをあまりにも軽視していると感じる。
私たちが元から持っているリズム感というものは西洋のものとは違う、ということをまず知らないといけない。

これは言語感覚の違いが大きく影響しているように思う。

西洋の言葉は子音がはっきりしており文法も明確だ。そこで生まれた音楽は、それもまた同様なのだ。
私たちが話す言葉は、抑揚がなく文法も自由度が高く単語の種類も多い。

そのため言葉自体に意味を持たせることが可能で、抑揚などつけなくても高度な会話が成り立つのだ。

これが欠点なのだ。私たちは海外の音楽を勉強しているのだから、そこに日本の拍感覚や言語感覚を持ち込んではいけない。
私はドイツ語を学ぶことにより、はっきりと言語感覚が音楽を作っていることを理解することができた。

よく日本のコンクールで見かける演奏に、一拍目をきちんと踏まず二拍目に向かっていくものがある。
このような演奏は輪郭がぼやけ気持ち悪い歌い回しになり、演歌のようにさえ聞こえる。
私個人としては、裏拍の捉え方以前に、強拍の捉え方にそもそも問題があるように感じる。重い拍がなければ軽い拍は生まれないのだ。

このような演奏は、西洋音楽を使い演歌を歌っているように聴こえ、品がない。

しかし、日本ではこのような演奏が良しとされる現状がある。

なぜか、

日本人が審査しているからだ。

品良い音楽とは、形式がきちんとある。形式を理解できずに歌いこんでも西洋の歌にはならない。

まずは拍の感覚を身につけること、そしてその形式を背景に曲が作られていることを理解しないといけない。
私たちは、海外の音楽を勉強しているのだ。

自由に歌ってと生徒に助言する前に、きちんとした拍節を身につけさせなければならない。
枠組みがない歌は、西洋音楽ではないからだ。

それこそ、一音に気持ちを込める日本特有の音楽になるのだ。
西洋音楽においては、形式の上に曲が成り立っている。

形式の中でのみ自由を獲得することができる。

伝統芸術

歌舞伎、能といった伝統芸能が日本にある。
先人たちが形にした動き、言葉、音楽、色々なものが現代に受け継がれている。

クラシック音楽は、どうだろうか。
クラシック音楽も勿論伝統芸術である。先人たちが築いた型があり、それを何百年と受け継いできている。

日本でクラシック音楽が盛んに行われ始めたのは、ここ何十年のことである。西洋で受け継がれてきた伝統を日本に輸入したのである。
いってみれば日本ではクラシックは異国の音楽であり、異国の伝統なのである。
しかし異文化を抵抗なく吸収してしまう日本独特の国風により、クラシック音楽はあたかも昔から自分たちが引き継いできた伝統ような感じさえするようになった。

しかし、私たちは型を知っているだけなのだ。

私自身がそうであった。今になれば、以前の私は型しか知らなかったと思う。
響きに対する感覚が変わり自分で体現できるようになると、型がある意味がわかり始めた。型は人々の精神を形作る器でしかなく、本質は作曲家の精神が表に流れ出た空中に漂っている響きなのである。

譜面を見て作曲家の精神を理解することは不可能であるが、響きを聴いて、それによって心に浮かぶ景色や心情は、作曲者の精神と近いのである。

伝統を引き継ぐということは、もっと単純なことであることが分かった。

クラシック音楽の伝統とは、響きなのである。伝統を伝えるということは、響きを伝えるということである。

私は、ここ数十年でその伝統は大きく変わってしまったように感じる。それはデジタルの発展とともに加速していったようだ。
生の音よりデジタル音に人々が馴染んでしまい、響きに対する感性が変わってしまったように思う。

私は、プレトニョフ、ババヤンの演奏に出会えて良かったと思う。初めて響きから伝統を感じた。自分が信じていた伝統が間違っていたと感じた。