点と点が繋がる景色

バレエダンサーの優雅さ、日本舞踊の可憐さ、古武術のしなやかさ。

こういった形容が一流のピアニストにも当てはまるとずっと思っていた。

最近は、体幹を意識した体の使い方。
つまり腕や足を分離させて動かす器用さではなく、体が一体となって動く意識をレッスンでもやっている。
そこでは、立ち方、座り方、物の持ち方、歩き方、あらゆる仕草を例に出しピアノ演奏に反映させようとしていた。

もともと古武術や合気道といった筋力を鍛えるとは正反対の、体をいかに効率よく動かすかといった分野に興味があり研究をしていた。最近になりそれらとピアノ演奏に多くの共通点を見いだすことができてきた。

バレエで習う手の形も虫様筋を意識した正しい体の使い方に不可欠なものである。ヨガの手の形もそうである。
そして古武術でさえも、手の形がとても大切なのである。

以下の動画からそのことが見て取れると思う。
特に6分30秒からのそれは完全にショパンピアニズムの手の使い方であり、古武術でも虫様筋を意識した手の形を作って、体を連動させていることが分かる。

https://www.youtube.com/watch?v=Igk_-7iamA4

日本では、体をバラバラに使うことを習うが、そうではなくいかに一体化させるか、そのためには手の使い方から見直す必要があるのだ。
こういったことは、本気でピアノを上手くなりたい人だけが分かればそれでいいのかもしれないが、私は少しでも広まるよう活動していきたいと思っている。

音質を決定する2つのこと

手の筋肉の使い方、手首の使い方、腕の使い方、音が発生するまでには様々に体を使う。

しかし、この目に見える動作というのは音質決定の仕上げの段階だといっても良いかもしれない。

お寿司屋を例に出すと、目に見える握りの作業は最終作業であり、大切なのは下準備である。そしてその準備は目に見えない。

ではピアノ演奏の下準備とはどこか。
どこから音質は出発しているのか。

それには2つ大切なことがある。

1つ目。
前回のブログで書いた通り股関節を緩めて下丹田で支えること。

2つ目。
腕の出し方である。

ピアノを弾く際は、まず椅子に座り、その後に腕を持ち上げることによって鍵盤まで手を運ぶが、その運び方がとても大切である。

文章だけで説明させていただくが、
肩関節を一切開かずに手首の下から腕全体を操作すること。

つまり、肘を一切外に開かずに鍵盤に手を乗せるのだ。

こうすると背中の緊張は無くなり下丹田で腕の操作を支えることができる。
演奏中に肩が力む人は、この身体操作を学べば驚くほど改善する。

見た目には違いがほとんど現れないこれらの身体操作であるが、少しの認識のズレが大きくピアノ演奏を変えてしまう。
注意点としては、肩関節を開いて手を鍵盤に乗せた後に、外側に出てしまった肘を内側に入れても手遅れである。
最初の入り方を間違えてしまうと、その後にどのように修正しても背中の状態がまるで違ってしまうのだ。

科学は常に感覚の答え合わせであるが、色々なことが解明され誰にでも的確に伝わるようになると良いなと思う。
それには演奏中の全身の筋肉運動を調べる必要があるかと思っている。腕や指だけ調べても意味が無いだろう。

座り方、立ち方、腕の出し方、目に見えないところから音を磨いていく。
最近のレッスンでは音を出す前の身体操作をメインに行っており、こういうところに拘る教育が導入の段階から広まればいいなと思う。

これらの身体操作をおろそかにしているのはピアノだけなのだ。
他の楽器の1音への執着を、生涯を通して音を磨いていく情熱を、
私達も彼等と同じ勉強をしていく必要があると思う。

柔よく剛を制す

どれだけ強靭な関節を持っていても、どれだけ強靭な筋肉を持っていても柔らかさがなければピアノは歌わない。

剛強さをピアノにぶつけたところで、鍵盤から自分に向かって力を跳ね返されるだけである。

しなやかさは、力を使わないことではない。
しなやかさとは、力が関節で止まらずに隅々まで連動することである。

例えば腕の動かし方にしても座り方と重心の取り方を理解していなければ決してしなやかに使うことはできない。
腕の動きを行うための土台の準備がいるわけだ。

座った状態での土台とは、下丹田股関節の2つだ。

足をキュッと閉じて座っている方、沢山いるのではないだろうか?
股関節は緩めておかなくてはいけない。閉める方向で考えている方は、閉めれば閉めるほど自分の耳の機能が落ちていることに早く気がつかなくてはいけない。股関節を緩めてみると、いかに背中と腰と首が緊張していたか分かるはずだ。

背中で重心を取っている方も多いのではないだろうか?
背中にエネルギーを溜めてしまうと、耳の機能は落ち、動きも柔ではなく剛になってしまう。
剛で演奏している人は、総じて肘を使って力を外に逃がしており、音楽も下から上の方向に作っている。
間違った重心の取り方がどれだけ演奏を困難にしているかは効率的な演奏法を体得した人でないと理解できない。

下丹田で身体操作をでき始めると今より何倍も弾きやすくなると思う。

日本古来より、武術も舞踊も重心は下丹田である。
足の裏で地面を蹴っては駄目である。膝に力を入れては駄目である。股関節を緊張させては駄目である。腕の操作を肩や肘からしては駄目である。

古武術、合気道、日本舞踊、歌舞伎、能、狂言

しなやかな動きを必要とするものには、共通して同じ意識が存在する。

弾く感覚・聴く感覚

ロシアピアニズム,ロシアンアピニズム

「弾く感覚」と「聴く感覚」は相入れない仲であり、どちらかが強くなればどちらかは弱くなる。
この感覚というのは、誰でも切り替えることができる。それもとても簡単に。

指というのは、第1関節、第2関節、第3関節があり、一般的な奏法の人は、これら3つの関節を各々のバランスで使っている。
ショパンピアニズムではどうかいうと、99パーセント以上第3関節からしか使わない。

ここに「弾く感覚」と「聴く感覚」の分かれ道がある。
多くの人は気がついていないだろうが、第1、2関節から指を使った時点で耳は閉じてしまい、「弾く感覚」に脳みそが変わってしまうのだ。

ロシアピアニズム,ロシアンアピニズム

ロシアピアニズム,ロシアンアピニズム

人間は根元から運動をしている時、自然な円運動を伴いリラックスして体を動かせる。末端を動かすというのは本来は無理があるのだ。

指の根元は第3関節であり、この関節を支点にして虫様筋を使って打鍵する。

こうすると驚くほどに「弾く感覚」は薄まり、「聴く感覚」に脳みそが変わるのを意識できる。

音を聴くということは体の使い方を見直せば誰でも手に入るテクニックである。

虫様筋とショパンピアニズム ②

虫様筋を使うというのは、ショパンピアニズム以外でも普通に使われている言葉だと思う。
指を動かすことを考えると何も特別なことではないのだが、ピアノを前にしても使えているかというと、そうではない。

人が普通に生活していて物を掴んだりする時には、全ての人が虫様筋を使って生活している。

では試してほしい、物をつかむ時に指先に意識を集中するのだ。

どうだろうか、指先に意識を集中した瞬間に肘と肩が固まり、それまでリラックスしていた体の状態が一気に緊張に変わったのではないだろうか。
何も考えずにつかむ時には、そういった緊張は起こらない。

ショパンピアニズムでは普段と同じ手の使い方をする。
つまり指先に集中をせず、普段通りに物を掴んだり握手したりする感覚で演奏するのだ。
肩が上がったり肘が力んだりする方は、ほぼ間違いなく指先に集中をし、第1、第2関節を使って演奏しているはずである。
そうではなく、指先に意識を持たず第3関節から虫様筋を使って打鍵するのだ。

そうすることで最大の体のリラックスを得ることができ、さらにショパンピアニズム最大の利点がもう1つ得られる。

それが耳のリラックスである。耳こそがリラックスさせる最も大切な部分である。

ショパンピアニズムの中でも数多に流派は存在するが、その先駆者であるショパンの考えこそが私の大切な中心軸である。
私は、ショパンの記述と私が好きな様々なピアニストの演奏やそれに伴う動きから、打鍵を「重さ」「高さ」「速さ」 の組み合わせで構成すると考えた。(その理由はコチラからご覧下さい。)
そして文献を読み漁っているとネイガウスが同じように考えていたことが分かり、自身のピアニズム研究に迷いがなくなり没頭できた。

「ネイガウス著 ピアノ演奏芸術」に

F(打鍵の力) h(高さ) v(速度) m(質量)

という4文字で上記で書いた事を見事に簡潔に書いてあるので、是非読んでみてほしい。ピアノ観が変わるはずである。

それでもショパン、ネイガウス共に打鍵の発想までは書いているが、それを実行するための筋肉までを彼らの書物から見ることはできなかった。
しかし科学と解剖学の分野でピアニズムの研究が一層進んだ現代では、望みさえすれば誰でも美しい1音が手にはいるようになった。
伝統を音と感覚のみで受け継いでいく時代は終わったと感じている。

150年前、ショパンはコロンブスの卵とでもいうべき「新しい手の基本ポジション」を見つけた。
そのあまりにも美しく、溢れ出る想像力の源であり、全てのピアニズムの本質とでもいうべき基本ポジションを分解しつくすと「耳の解放」「虫様筋」「下部雑音」という答えに行き着いた。

1音を美しく出すだけなら、誰でもできる。才能という言葉で片付けずにピアノと真摯に向き合ってほしい。
日本にも美しい志を持った人が増えるよう活動していきたいと思う。

ピアニズムに関して私たちは、真の現実主義者・実践者でなくてはならない。 ゲンリヒ・ネイガウス