耳の使い方

私自身、以前とは音楽の聴き方が違ってきており、言葉は変だが今は素人と同じ感覚で演奏を聴いている。
というより聴けるようになった。

ピアニストというのは、いつも自分が演奏している時に聴いているポイントで音楽を聴く。
弾いたことがある曲なら尚更だ。
打鍵の瞬間を聴いて音楽を作っている人は、他人の演奏でもその部分を聴いてしまうのだ。

私は、これを職業病だと思っている。

特に指先の意識を持って弾いている人は、ピアノ演奏を素直に聴くことはなかなか難しいだろう。
そういった演奏者が近年急激に増えていると感じる。
デジタル音のように直線的な響きを普段の生活で多く耳にしており、静かな空間で広がっていく響きを耳にすることが少ないからだと思う。

まず耳の使い方を知らねばならない。これはテクニックなので意識すれば誰でも身につく。
以前にも書いているので、そちらもご覧ください。
音を聴く感覚

よく言われている、「他人が弾いているように」や「音楽を作る空間に幅をとって」とは全く違う。
横や縦の空間をイメージして音楽を作っている方がいるが、それでは客観性は生まれず逆に音楽にのめり込んでしまう。
各ホールに合わせて音響を調整しないといけないため自分の中で空間を作ってはダメなのである。
練習中にそうしている方は、本番だけホールを意識しても全く意味がない。練習でやらなければならないのだ。
横の空間の意識が少しあるだけで体と楽器のつながりは難しくなってしまう。

音はホールまるごと意識して、その中で縦と奥の方向で作るのだ。
そして目の前で全ての現象が実際に起こっているような聴き方をしなくてはいけない。
自分の中にあるイメージが目の前で全て現実となって現れなければならないのだ。
それには、ピアノが打楽器だと理解し、打楽器を扱う上での腕と指の役割を学ばなければならない。
この域に到達すれば、想像の中でしかなかった音の世界を自分の目の前で作り出すことができてくる。

つまり、ピアノで歌うのではなくピアノを歌わせるということである。

そうなると何百年という歳月を超えて作曲者の思い描いた響きがそのまま空間に満たされていく。

ピアノを歌わせることが最も難しいことである ホロヴィッツ

私の練習方法

楽器と体の仕組みを把握でき始めてからは練習内容が大きく変わった。
今の感覚からすると以前の練習は指の運動をしていた。
オリンピックに出るアスリートのごとく、本番で最高の運動能力を発揮できるように日頃から鍛えている感覚だ。

今はと言うと、毎日2−3時間も練習すれば良い方で、そのほとんどが音を聞く作業である。
テクニックの練習などほとんどない。それでも弾けるのである。
練習では、主観的になってしまっている部分を見つけ、その主観を響きで表現できるように指使い、タッチ、ハーモニーを徹底的に見直す。

生徒にもリズム練習などまずやらせない。弾けない箇所というのは、楽器の扱い方か体の扱い方がおかしくなっているところであり、指の問題ではないからだ。

練習とは主観の全てを客観に持っていくことであり、肉体と音楽を切り離していく神聖な作業のようにも感じる。

背中の使い方

ショパンピアニズムにおいて背中の使い方は大変重要である。

私が言う背中の使い方とは、背中を使わないということだ。
反対のことを書いているようだが、ほとんどのピアニストは背中を使いすぎている。

例えばフォルテを出そうとするとき、弾く瞬間に背中が緊張していないか?

例えば弱く美しい音を出そうとするとき、背中が緊張していないか?

ほとんどの方は、背中が緊張しており耳の使い方が変わってしまっている。
この背中の使い方をしている方は基本的に楽器の扱い方と音の聞き方を把握できていない。

背中は使ってはいけないのだ。
その瞬間、空中に漂っている音は地に落ちる。

脱力について

脱力の感覚とは、

腕の重さを指にかけないことで指の運動をしやすくする。
その際、手の中は完全にリラックスし、弾いた後に手首と肘を使い力を外へ逃す。

ショパン登場以前には、この感覚が主流であった。

1800年代初期にフランスで名を馳せたピアニスト・ピアノ教師カルクブレンナーがピアノ練習に「手導器」というものを開発し大流行したのだ。

手導器の使用例である。

この器具の上に手首を置き、腕の重さが指に乗らないようにする。こうすると指が腕の重さから解放され自由を獲得する。そうすることで指の運動のみで演奏できるのだ。

フレンチピアニズムには、この影響が多く見られる。

例えばサンサーンスはこの器具を使い練習しており、彼のピアノ作品の発想はこの演奏法からきている部分があると感じる。
そのため彼の作品は器楽的な要素が多く、ピアノが歌うといった発想が少ない。

この手導器に対してショパンは次のように言っている。

散歩をするのに逆立ちの練習をしているようなものだ。 

この指だけを使うという発想はショパンにはなかった。
腕の重さをいかに利用するか、いかにピアノを歌わせるかを考えており、ショパンのピアニズムにおいては手導器で用いられる脱力という言葉は全く意味を持たない。

私が教えているピアニズムはショパンのピアニズムに基づいており、レッスン中に脱力という言葉は使わず「リラックス」という言葉にしている。

日本はというと、手導器時代と同じ意味で脱力を追い求めている。

手の中に響きを持つ感覚

手の中に響きを持って

ショパンピアニズムを習った方なら度々耳にする言葉であり、金言である。
この感覚的な言葉を感覚のまま伝えたところで多くの人は実践できない。
しかし、このような言葉の裏には必ず肉体における筋肉の反応がある。

私は感覚で教えることが大変嫌いなので、全てを論理的に解明し生徒に伝えるよう取り組んでいる。

まず一つ伝えておきたいことは、脱力という言葉を忘れてほしいことである。
ショパンピアニズムでは腕の重さを利用するため、重さをピアノに伝える際に手の中は音色に合わせて緊張させる。

そして腕の重さをピアノに伝えた後、手の中の緊張を解くことはない。

多からず少なからず常に手の中は緊張させているのだ。

弾いた後に緊張を維持させることこそ、手の中に音を持つ感覚なのだ。

ショパンピアニズムでは脱力は決してしない。
演奏している時は、力む感覚など全くないが筋肉の動きだけを見ると常に緊張している。