指先の意識

ピアニズムにも色々な流派があり、様々な演奏時の意識がある。
違いがあれど共通して、腕の重さを利用しているという点は変わらない。
以前書いた、こちらもご一緒にお読みください。
ショパンピアニズムの共通点

私が好きな音はソフロニツキーやホロヴィッツ、ソコロフである。
彼らに共通している点は、「腕の重さを利用している事」と「指先を意識していない事」だ。

ショパンピアニズムでもこの指先の意識の違いは大きく演奏に影響をする。
指先に意識がある時点で、ショパンの流派からはずれており、リスト系の流派に属すると考えている。

私は指先に意識がある音と音楽があまり好きではない。
この弾き方をする人は、総じて主観的であり演奏している時に自分の感情が優先してしまい音を聴けなくなる。
作品の美しさより、演奏者の呼吸が聴こえてきて美しくないのだ。
一流の人ほど、冷静に音を聴いており、それは指先に意識がある時点で不可能なのである。

主観性の問題とともにもう一つ大きな問題がある。

それは、指先に意識があると肘と肩が緊張してしまうことだ。
指先の意識の人は腕の重さを利用はしているが、肘から指先までの重さしか利用できていない。
演奏していても肩と肘が力みやすく、肩が上がったり肘が外に逃げたりするはずである。
指先の意識の人は腕の重さが乗りにくい分を前傾姿勢になったり椅子を高くしたり腕を大きく使ったりして補っているが、それをしている時点で自然な音楽から離れて行ってしまうのだ。

この力みを取ることは指先に意識がある限り不可能であり、その力みを抜くために様々に意識をして力みの回避をしているはずである。
残念ながら、その回避をしている時点で、力んでいるのだ、

私は、「指先を作る」という考え方のピアニズムを疑問視している。
これは日本で流行っている弾き方に毛が生えた程度で現状とさほど変わりない。
ここから抜け出せないでいると、19世紀から20世紀に頂点を築いたあの響きを手に入れることは不可能である。

ピアノ演奏時に指先の意識はない。これがあると腕の重さを乗せた指が、空中から鍵盤に降ってきた時に指と鍵盤が衝突してしまう。
指先から解放されること。これを理解して初めてショパンやドビュッシー、スクリャービンは光り輝く。

ピアノとの距離感

弾いた後に腕を上にあげて音を膨らませている演奏を日本ではよく耳にする。

皆さんも試してみてもらいたいのだが、一音を鳴らした後に音を膨らませようと腕を回したりあげたりしてほしい。
音が変わって聴こえるはずである。

では実際どうなっているかというと、何も変わっていない。
弾いた後では音は何も変わらないのだ。

ここにピアニストが気をつけるべき点がある。
ピアニストは、これらの体の動きによって実際聴こえている音と自分の中で聴こえている音に誤差が生じているのだ。

ショパンは、ピアノが減衰楽器であることを明確に把握しており、長い音符やシンコペーションの音はあらかじめ大きい音を鳴らさなければならないと弟子達に言っていた。
弾いてからでは、遅いのである。

ピアニストは、常に客観的でなければならない。しかし出てきた響きに心を踊らせなければならない。
このピアノとの距離感というのがとても大切なのだ。

ショパンピアニズムでは、子供の時からこの距離感を徹底して教える。

冷たい頭と熱い心を持て  アルフレッド・マーシャル

 

レガートの感覚

レガートのイメージをすると横の流れを思い浮かべると思う。
以前、私もそうであった。

今は1音1音を縦や奥の意識で配置していき、全ての音に細かなニュアンスを与えていく感覚になっている。

例えていうならば、星座だ。
1つ1つは独立して輝いている星だがそれを線で繋いで大きな絵にする感覚。
レガートを横の意識で作っている人は、音楽のスケールが小さくホールで響かない。
横の感覚でレガートを紡いでいる時点で音の輝きは薄くなってしまうのだ。

縦に音を鳴らして、和声、フレージング、リズムの要素で横の音楽を創造していく。
偉大な演奏家のスケールの大きさは、この感覚からきている。
これが身につけば、音を見ることができる。

レガートについては、こちらも合わせてご覧ください。
レガートの本質

作曲家の弾き分け

ショパンの歌声は柔らかく、音に空気が多く含まれている。
ドビュッシーはショパンよりもさらに柔らかく、音に含まれる空気の量も多い。
リスト、ラフマニノフは歌声に張りがあり、直線的である。
モーツァルトは空気の量は多くないが、他の作曲家よりもはるか高い位置で歌声が聞こえる。
バッハにおいては、あらゆる楽器、あらゆる大きさのホールのために書かれており、その声色は無限に近いと感じる。

ピアニストは作曲者によって曲を弾き分けないといけない。
それはキャラクターを弾き分ける以前に、音質自体が違うことを知らなければならない。
その音質が出せてこそ初めて作曲者が望んだ歌が生まれてくる。
曲を理解するとは、声色を探すことと同義なのだ。

全ての曲で違う歌手が歌っていると思えば分かりやすい。
歌手が違うということは、声の質から歌い方まで違うのだ。

そして歌い方の違いというのは、声の質から生まれていることを理解しなくてはいけない。

耳の使い方

私自身、以前とは音楽の聴き方が違ってきており、言葉は変だが今は素人と同じ感覚で演奏を聴いている。
というより聴けるようになった。

ピアニストというのは、いつも自分が演奏している時に聴いているポイントで音楽を聴く。
弾いたことがある曲なら尚更だ。
打鍵の瞬間を聴いて音楽を作っている人は、他人の演奏でもその部分を聴いてしまうのだ。

私は、これを職業病だと思っている。

特に指先の意識を持って弾いている人は、ピアノ演奏を素直に聴くことはなかなか難しいだろう。
そういった演奏者が近年急激に増えていると感じる。
デジタル音のように直線的な響きを普段の生活で多く耳にしており、静かな空間で広がっていく響きを耳にすることが少ないからだと思う。

まず耳の使い方を知らねばならない。これはテクニックなので意識すれば誰でも身につく。
以前にも書いているので、そちらもご覧ください。
音を聴く感覚

よく言われている、「他人が弾いているように」や「音楽を作る空間に幅をとって」とは全く違う。
横や縦の空間をイメージして音楽を作っている方がいるが、それでは客観性は生まれず逆に音楽にのめり込んでしまう。
各ホールに合わせて音響を調整しないといけないため自分の中で空間を作ってはダメなのである。
練習中にそうしている方は、本番だけホールを意識しても全く意味がない。練習でやらなければならないのだ。
横の空間の意識が少しあるだけで体と楽器のつながりは難しくなってしまう。

音はホールまるごと意識して、その中で縦と奥の方向で作るのだ。
そして目の前で全ての現象が実際に起こっているような聴き方をしなくてはいけない。
自分の中にあるイメージが目の前で全て現実となって現れなければならないのだ。
それには、ピアノが打楽器だと理解し、打楽器を扱う上での腕と指の役割を学ばなければならない。
この域に到達すれば、想像の中でしかなかった音の世界を自分の目の前で作り出すことができてくる。

つまり、ピアノで歌うのではなくピアノを歌わせるということである。

そうなると何百年という歳月を超えて作曲者の思い描いた響きがそのまま空間に満たされていく。

ピアノを歌わせることが最も難しいことである ホロヴィッツ