レッスンの景色

ドイツで勉強していて、日本とは教授法がまるで違うことを肌で感じた。
レッスンでの教授の姿は、今も自分の目にありありと焼きついている。

「どうしてベートーヴェンは、ここにクレッシェンドと書いたんですか?」

と聞くと

「ベートーヴェンに電話したいけど、彼はもう亡くなっているからな」

と答えが返ってくる。

個人で解釈しなくてはいけない箇所が沢山あり、そこには自主性が必要なのだ。
音楽のルールやリズム、調性、テンポ感などは徹底して指導してくれたが、
解釈となると、「あくまで個人的な意見としては」という前置きがつくのが常だった。

また別の時には

「次回、スクリャービンを持ってきます」

というと

「私には理解できないから、別の曲にしてくれ。スクリャービンのレッスンなら同僚を紹介するよ」

分からないものを、分からないと言える。それを普通のこととしてレッスンしているヨーロッパの環境に衝撃を受け、憧れを抱き、自分も日本ではそのようにしたいと思った。

小さい一歩ではあるが、信頼できる教師と連携が取れるレッスン形態を私の教室でも採用している。

日本ではこのように習ったことはなかった。そのような人物に出会ったこともなかった。
先生とは絶対的であり、言われた通りにしないといけない。そのような音楽教育は日本だけのものだった。

レッスン室に向かう階段が好きで、レッスン室の匂いが好きで、教授に会えることが楽しみだった。
ドイツに留学した時からピアノを音楽を真に好きになることができた。

Garrick Ohlssonのレッスンを見ていると、そんなドイツでの景色を思い出した。

満員電車の音

基音で演奏している人は、人の演奏を聴いても基音でしか聴けない。
現在でも多くの日本の教育者・ピアニストはそのような音の聴き方をしてしまっている。

音の聴き方は、本来何も考えなくていいのだが、基音に取り憑かれてしまっている方は、耳のテクニックを学ばなければならない。

満員電車に乗っている時、どれだけうるさくても友人の声だけは聞き取れる。
これは耳が持っている、雑音を消して「必要な音」だけを聞くという能力が働くからだ。

演奏中にこれを使ってはいけない。
つまり、自分にとって必要な音を聴きに行ってはいけないのだ。

それをしてしまうと、電車の雑音と同じように、周りの音は聴くことができなくなってしまう。

耳のテクニックとは、満員電車の音を全て聴く感覚である。
耳で一つの音を追ってはいけない。
全てを同時に聴くのだ。

これができると基音の呪縛から解放される。

基音と倍音

先日、お世話になっている調律師の方が面白いことを言っていた。

「最近は倍音で調律しているんですよ。そうすると皆も弾きやすいと言ってくれる」

ピアニストも同じで、指先で掴む音=基音を聴いて演奏してしまうと途端に色がなくなる。
ある年齢層の日本人教師・ピアニストは、基音で演奏し、基音で演奏される音楽を好む傾向にあると感じる。
私も日本では基音での音楽を習ってきたし、響きを混ぜようとするとよく注意されていた。

しかし聴衆は違う。響に色を感じて心が動くことに幸せを感じる。
そういった感動ができなくなってしまっては、演奏する意味や音楽を聴く意味は果たしてあるのだろうか。

日本の音楽教育に一石を投じるとしたなら、この基音文化を否定することから入らないといけないかもしれない。

点と点が繋がる景色

バレエダンサーの優雅さ、日本舞踊の可憐さ、古武術のしなやかさ。

こういった形容が一流のピアニストにも当てはまるとずっと思っていた。

最近は、体幹を意識した体の使い方。
つまり腕や足を分離させて動かす器用さではなく、体が一体となって動く意識をレッスンでもやっている。
そこでは、立ち方、座り方、物の持ち方、歩き方、あらゆる仕草を例に出しピアノ演奏に反映させようとしていた。

もともと古武術や合気道といった筋力を鍛えるとは正反対の、体をいかに効率よく動かすかといった分野に興味があり研究をしていた。最近になりそれらとピアノ演奏に多くの共通点を見いだすことができてきた。

バレエで習う手の形も虫様筋を意識した正しい体の使い方に不可欠なものである。ヨガの手の形もそうである。
そして古武術でさえも、手の形がとても大切なのである。

以下の動画からそのことが見て取れると思う。
特に6分30秒からのそれは完全にショパンピアニズムの手の使い方であり、古武術でも虫様筋を意識した手の形を作って、体を連動させていることが分かる。

https://www.youtube.com/watch?v=Igk_-7iamA4

日本では、体をバラバラに使うことを習うが、そうではなくいかに一体化させるか、そのためには手の使い方から見直す必要があるのだ。
こういったことは、本気でピアノを上手くなりたい人だけが分かればそれでいいのかもしれないが、私は少しでも広まるよう活動していきたいと思っている。

音質を決定する2つのこと

手の筋肉の使い方、手首の使い方、腕の使い方、音が発生するまでには様々に体を使う。

しかし、この目に見える動作というのは音質決定の仕上げの段階だといっても良いかもしれない。

お寿司屋を例に出すと、目に見える握りの作業は最終作業であり、大切なのは下準備である。そしてその準備は目に見えない。

ではピアノ演奏の下準備とはどこか。
どこから音質は出発しているのか。

それには2つ大切なことがある。

1つ目。
前回のブログで書いた通り股関節を緩めて下丹田で支えること。

2つ目。
腕の出し方である。

ピアノを弾く際は、まず椅子に座り、その後に腕を持ち上げることによって鍵盤まで手を運ぶが、その運び方がとても大切である。

文章だけで説明させていただくが、
肩関節を一切開かずに手首の下から腕全体を操作すること。

つまり、肘を一切外に開かずに鍵盤に手を乗せるのだ。

こうすると背中の緊張は無くなり下丹田で腕の操作を支えることができる。
演奏中に肩が力む人は、この身体操作を学べば驚くほど改善する。

見た目には違いがほとんど現れないこれらの身体操作であるが、少しの認識のズレが大きくピアノ演奏を変えてしまう。
注意点としては、肩関節を開いて手を鍵盤に乗せた後に、外側に出てしまった肘を内側に入れても手遅れである。
最初の入り方を間違えてしまうと、その後にどのように修正しても背中の状態がまるで違ってしまうのだ。

科学は常に感覚の答え合わせであるが、色々なことが解明され誰にでも的確に伝わるようになると良いなと思う。
それには演奏中の全身の筋肉運動を調べる必要があるかと思っている。腕や指だけ調べても意味が無いだろう。

座り方、立ち方、腕の出し方、目に見えないところから音を磨いていく。
最近のレッスンでは音を出す前の身体操作をメインに行っており、こういうところに拘る教育が導入の段階から広まればいいなと思う。

これらの身体操作をおろそかにしているのはピアノだけなのだ。
他の楽器の1音への執着を、生涯を通して音を磨いていく情熱を、
私達も彼等と同じ勉強をしていく必要があると思う。