音楽は抽象的 テクニックは具体的

私は音楽の伝統的なルールなどは教えても音楽自体を教えることはしない。
本当にイメージがつかめない時などは、少し助言してイメージを与えることはあるが、それすら本当はしたくない。

音楽のイメージを生徒に伝えすぎる教師に私はあまり良い印象を持っていない。
楽譜を見ると「〜のように」と多く書き込みがあると、生徒は弾いていて楽しんでいるのか不思議に思うことさえある。
他人の想像の箱の中で演奏することほど、つまらないことはないからだ。

音楽の感じ方は人の数だけ無限にある、とても抽象的であり個人的なものなのだ。
何人もそこに立ち入っては、楽しむという原点からずれてしまうと感じる。

しかしテクニックは具体的に説明できないといけない。
自分がやっていることを言葉にして人に説明できないということは、プロではない。

テクニックは、パッセージによっていくつにも細分化されるように見えるが、手の動きだけを見ると単純なのだ。

決まった形の組み合わせ方の差異でしかない。

つまり基礎的なテクニックを教えれば、他は自分でできるのだ。

私はテクニックを言語化して人に伝えることに使命を感じている。

ピアノを歌わせる②

発音の問題は私たち日本人は真面目に向き合わなければならない。

ドレミファソラシド

こう思いながら弾いていたのでは、ピアノは歌わない。

ドレミファソラシドはイタリア語である。
イタリア語ということは、アルファベットに変換できるということだ。

つまり本来は

DO RE MI FA SOL LA SI DO

こうなるわけだ。
ソの音がイタリア語ではSOLとなることに驚いた人もいるのではないだろうか。
日本語で言うソとは、まるで違うプロセスを通って発音させる音なのだ。

こう考えながらピアノを触ってみると、すでに少し違いが出るだろう。
感覚が良い生徒は、このことを教えてあげるだけでタッチの質がガラッと変わる。
それほど重要なことなのだ。

私たち日本人は「子音」「母音」を意識することがまずない。

日本人の演奏が機械的なのは、ほとんど場合、歌が下手であるからだ。
つまり言葉の発音が下手なのである。

日本語は子音と母音の長さが、どの単語を取ってもほぼ同じで、それゆえリズムも平坦で音程もない。
その言語感覚で歌うと当然全く異なる音楽になるわけで、その感覚を持ってピアノを弾いてもピアノは当然歌わないのだ。

ピアノを歌わせるには、タッチを見直さないといけない。なぜなら発音が違うからだ。
生徒を見てきたが2〜3ヶ月も丁寧に教えていると、きちっとしたアルファベットの発音になりピアノが歌い出す。

ピアノを歌わせる①

ピアニストにとって一番難しいことだ。

ホロヴィッツでさえピアノの技術で最も難しいのはピアノを歌わせることだと言っていた。

確かに歌うピアノは実在する。日本では一度も聴いたことがなかった。

声楽家の伴奏をすることが多いのだが、彼らはもちろん歌っている。
しかし彼らが歌っている時、体を左右に揺らしたり顔を不必要に動かしたりしない、

つまり歌を縦に捉えているのだ。

この発想はピアノにおいても物凄く大切なことだ。

日本のピアノ教育だとピアノを扱うときは横に扱うように教えられる。

「横に流して」「手を横に移動させながら」「腕を横に」

これらは全て日本的な発想であり西洋音楽をピアノという楽器を使って演奏するには大きな間違いである。
横に扱うと何が悪いかはここでは書ききれないほど多いので、今回は省略する。

そしてもう一つ重要なことがある。

それは歌でもそうなのだが、言葉の発音だ。

次に続く

ショパンピアニズムで感じること

ピアニズムを根こそぎ変えてから、もう随分長い期間が経った。
ピアノを弾いている時に見える世界はガラリと変わり、今は偉大なピアニストの演奏を聴くたびに多くのことが発見できるようになり
自分としては多くの先生に師事している気分だ。

偉大な演奏家であれタッチの基本原理が同じであることに気がつく。

では何が違って演奏がこうも異なるのか。
最近はそのことも見えてきた。

ソフロニツキーのタッチ、ネイガウスのタッチ、ソコロフのタッチ、偉大なピアニストの一端に触れるべく彼らのタッチを追求していくと音楽を聴いている耳の位置が異なることに気がつく。

耳が音を拾う位置が違うのだ。
耳が物凄く解放されているのはニコラーエワだと感じる。彼女のタッチを求めると自然と耳は天井の高い位置にくるのだ。そして地球を外側から見るように音楽を作っていく感覚になる。そこには主観性はあまりない。

主観性を持たせようとすると耳の位置は自然と落ちてくる。

この耳の位置の違いが演奏に大きく影響するのだ。

音というのはピアニスの声である。声の質で演奏できる音楽はまるっきし変わってしまう。

テクニックを言語化すること

自分がやっていることを言語化できないことには、教師は務まらないと思う。
よく感覚だけでレッスンする光景を目にするが、教師がイメージするものは伝わるが生徒自身の演奏が改善されるかと言ったらそうではない。

たとえその曲が良くなったとしても、根本的な部分が改善されていなければ、他の曲になるとまた一から始めなければならないのだ。ここでいう根本的な部分というのはイメージを音楽に反映させるテクニックである。

教師は自分がどういうプロセスで音楽を理解し、その理解したものを音にしているかを言葉にできないといけない。

そうすることで、生徒はある意味で体系的にピアノを学ぶことができる。
クラシック音楽の学び方を理解するということが、とても大事なのである。

芸術は抽象的だが、テクニックは具体的でなくてはならない。

言語化できないということは、そのテクニックは間違っている。
言語化してみると、いかに自分のテクニックが合理的でないかが見えてくる。
なぜ?なぜ?と常に問いかけ、自己否定を繰り返すことによって上に登っていけると感じる。