ピアノの幻想

私は、何回目のレッスンであろうと、常に客観的であることを助言している。
自分自身も練習ではこのことを絶えず意識する。
楽器を扱うということは、楽器を知らないといけない。
指や腕でレガートをつないで弾く人がいるが、今の私からするとピアノに愛想をつかされているなと思う。
レガートを指や腕で繋いでいる人は頭の中でなっている音と実際ピアノから出てきている音が違うことを知らない。その事実を疑うことさえ人生でしてこなかったはずである。

これをまず気がつかせることからレッスンが始まるわけだが、それを意識してもらうためにハンマーの動きのことを最近は見てもらうようにしている。
幻想を持ってピアノを弾いている人は、指と指で音を繋ぐと音楽に合わせてハンマーやピアノ線も横のラインで繋がっていると感じている。そこで私がハンマーの動きという現実的な話をすると皆さん矛盾に気がつく。

どう指で繋げようが、どう腕を使って繋げようが、
ハンマー自体は常に下から上方向に動いてピアノ線を打つだけなのだ。

このことを正しく理解し実践し生徒に伝えられている教師が何人いるのだろうか。
一番大切なことは、指や腕ではなく、ハンマーとピアノ線であり、体の動きから音楽を作る発想の段階で本末転倒なのだ。楽器に体を合わせているのだ。

指や腕で滑らかに横につないでも、ハンマーは下から上。
この事実は決して変わらない。
ペダルを踏んでいれば、手を離しても音は切れない。変わらない。
変わっているのは自分の脳の中身だ。

ショパンピアニズムとは、動きに対して脳が邪魔されず絶えず客観的に音を聴ける状態を保てる演奏法なのだ。

レガートは耳以外では作れないことを理解しなくてはいけない。
演奏中に鍵盤から指が離れない人は、耳を使えていない証拠だ。
鍵盤に吸い付くように弾くことは、ピアノを理解できていない人の考えなのだ。
この幻想のせいで、どれだけ多くの人がテクニックの問題を抱えているのだろうか。

幻想の中でピアノを弾くことはやめなくてはいけない。
幻想から解放された時に、初めて現実の世界に幻想を作ることができる。

何もしない美しさ

ショパンピアニズムの音の世界に入ると新しい感覚が生まれてくる。
それは、自分から音楽を発信するのではなく、音楽が自分に向けて発信してくる感覚だ。
その世界を味わうと、自分から何かを表現することが音楽を汚してしまうかのように感じてくる。

何もしなくていいのだ、ただ自分がそこにいればいい。
美しくピアノを扱えればあとはそこにいればいいのだ。

再現芸術の本当の意味を私は最近になって理解してきた。
ピアノを弾く行為は能動的だが、受動的に音を感じなくてはならない。
この境界線を間違えてしまうと、途端に作り物の音楽に化けてしまう。

練習とは、音楽に対して受け身になっていく行為だと感じている。

演奏教育とコンクール

ピアノを習得させるためにツェルニーやハノンからやらせることを私は決してしない。
あれほど悪しき習慣を日本の教育現場は、さも当たり前のように取り入れていることを私は問題視している。
ピアノ教育の基礎は合理的な腕と手の使い方、耳の使い方を徹底して教えることであり、指の独立や間違えないように弾くなどはどうだっていいのだ。
ハノンやツェルニーなどは、そういった最も大切な根本が出来てからやらせればいい。それでも私はやる必要性は全く感じていない。
ハノンのスケールが曲の中で出てくることなど滅多になく、粒を揃えて弾くなど曲の中では決してしないからだ。
ハノンやツェルニーからテクニックを学んでしまった人は、可哀想ではあるが一生かかってもショパン以降の作曲家は演奏できない。

ショパンの言葉を借りれば

完成されたテクニックとは、すべての音に細かいニュアンスをつけられること

なのであり、均一に弾くことではないのだ。そこがツェルニー・ハノンとショパンの大きな違いであり、ショパンは200年前に全てを覆したのだ。
日本は何百年も取り残されており、まずは本当に美しい響きと音楽を教師自身が体現できる必要があると思う。
知っているだけでは方法論までたどり着けず、生徒は教師の音を真似するので結局は響きのない音で演奏してしまう。

音楽教育は今まで通りで良いが、演奏教育では日本の根本から変える必要があると感じている。

そしてそれを助長させているのがコンクールであることは間違い無いだろう。
コンクールで入賞する演奏がよいとされ、教師はその音と音楽を良いと判断し、そこを目指して指導することで日本の学生は年々世界から浮いた演奏をするようになっている。
審査員自体の音や音楽の価値観が何百年と遅れているのに、どのようにして真に美しい音楽が広まるのだろうか。
コンクールと芸術は、日本においては別方向なのだ。
日本のコンクール入賞を狙ってピアノを弾くのか、真に美しい芸術に触れるためにピアノを弾くのか、それは本人次第であるが、私は初心者から専門的にやっている人まで前者を教えることは一切しない。
縁があって私のところに来てくれた人だけでも、その人その人の心の中にある美しい音楽を響きとして現実の世界に出し、時代を超えた美しさを体現してもらえるよう手伝いたいと思っている。

作曲家の弾き分け

ショパンの歌声は柔らかく、音に空気が多く含まれている。
ドビュッシーはショパンよりもさらに柔らかく、音に含まれる空気の量も多い。
リスト、ラフマニノフは歌声に張りがあり、直線的である。
モーツァルトは空気の量は多くないが、他の作曲家よりもはるか高い位置で歌声が聞こえる。
バッハにおいては、あらゆる楽器、あらゆる大きさのホールのために書かれており、その声色は無限に近いと感じる。

ピアニストは作曲者によって曲を弾き分けないといけない。
それはキャラクターを弾き分ける以前に、音質自体が違うことを知らなければならない。
その音質が出せてこそ初めて作曲者が望んだ歌が生まれてくる。
曲を理解するとは、声色を探すことと同義なのだ。

全ての曲で違う歌手が歌っていると思えば分かりやすい。
歌手が違うということは、声の質から歌い方まで違うのだ。

そして歌い方の違いというのは、声の質から生まれていることを理解しなくてはいけない。

フレーズの作り方②

ピアノは楽器であるので、鳴らすには運動が伴う。

時には音楽と運動のイメージを一致させると、とても大きく役に立つ。

フレーズを作る上でとても多い間違えが、前回述べた「フレーズを収める」という発想である。

運動もそうである。例えば100メートル走である。

スタートとゴールがあり、そこを走っていくわけだが、皆さんはゴールの時にはどのように走っているだろうか。

全速力で走ってきて、ゴール地点に来た瞬間にピタッと立ち止まる人はいるだろうか?

もしも立ち止まったなら、その瞬間には体にとても大きな負担がかかる。

ピアノも同じである、音楽的なゴールはあるが、そこに向かって止めてはダメなのである。

常に走る抜ける意識がなければその音は途端に硬くなる。

 

そしてフレージングである。言ってみればフレージングとはリレーである。

 

バトンを次のフレーズに渡すわけだが、次のフレーズにバトンを渡した方は渡した後もすぐ立ち止まるのではなく、走り抜けているはずだ。

それが本来のフレーズのつなぎ方である。収めてはダメなのだ。

 

ショパンの音楽は、常にクレッシェンドとデクレッシェンドの間を行き来していた。

 

そのような音楽をするには、ゴールも設けて立ち止まると言う発想を持ってはいけない。

音楽とは、常に浮遊しており、次々につないでいくのだ。そのためには、一音たりとも、立ち止まる音を出してはいけない、常に出した音の後まで走り抜けるのだ。

 

黒木ピアノ教室 YOU TUBEチャンネルより

フレーズを収めない

フレーズの作り方