オクターブの弾き方

オクターブというのは避けては通れないテクニックの一つです。

ほとんどの人はただ決められた手の形にして弾いているだけであり、オクターブが美しく響いていません。

オクターブを響かせるには、まず考え方を変えなくてはなりません。

手の形をしっかり決めて外さないように練習するのではなく、親指と小指がそれぞれ別々のニュアンスを持っていると考えます。

 

つまりオクターブは2声であると強く意識するのです。

 

こうして2声であると意識して弾いた時の手の中は、単に手の形だけ決めて弾いてる時と比べると、とても複雑な筋肉の使い方をしています。

オクターブが2声ということは常に意識しなくてはいけません。

そして、これらを行うには手の軸が親指や小指にあってはダメなのです。

軸に関してはこちらをお読みください。

腕の軸について

ショパンピアニズムで感じること

ピアニズムを根こそぎ変えてから、もう随分長い期間が経った。
ピアノを弾いている時に見える世界はガラリと変わり、今は偉大なピアニストの演奏を聴くたびに多くのことが発見できるようになり
自分としては多くの先生に師事している気分だ。

偉大な演奏家であれタッチの基本原理が同じであることに気がつく。

では何が違って演奏がこうも異なるのか。
最近はそのことも見えてきた。

ソフロニツキーのタッチ、ネイガウスのタッチ、ソコロフのタッチ、偉大なピアニストの一端に触れるべく彼らのタッチを追求していくと音楽を聴いている耳の位置が異なることに気がつく。

耳が音を拾う位置が違うのだ。
耳が物凄く解放されているのはニコラーエワだと感じる。彼女のタッチを求めると自然と耳は天井の高い位置にくるのだ。そして地球を外側から見るように音楽を作っていく感覚になる。そこには主観性はあまりない。

主観性を持たせようとすると耳の位置は自然と落ちてくる。

この耳の位置の違いが演奏に大きく影響するのだ。

音というのはピアニスの声である。声の質で演奏できる音楽はまるっきし変わってしまう。

ショパンピアニズムの構え

腕が一番自然な状態

腕が自然な状態とは、椅子に座り膝の上に置いた手を右にも左にも傾けずそのまま鍵盤に乗せた状態です。

よく目にする間違った奏法に、

・肘を外に出す
・5本の指を同じ長さに整えるために指を曲げる
・鍵盤と指を直線上に配置する

といったものがあります。

しかし自然のままに鍵盤に手を置くと次のようになります。

・小指が鍵盤についている時は親指が少し浮いている
・鍵盤に対して指が斜めに置かれる
・肘は外側に出ず、自然に配置されている

ショパンピアニズムではこのように配置します。これはショパンが考案した基本ポジション通りの配置になっており、ピアノを弾く際はこの状態を基本にします。

ショパンの教則本を読めば誰でもこの配置について知ることはできますので、日本において知られていないだけです。

このように構えると両手ともに小指に重さがかかります。この小指重心の弾き方にするだけでテクニックは大きく改善されます。
そして指が斜めに鍵盤に触れることで指はリラックスしたまま打鍵することが可能になります。

そしてこの配置により初めて手首は自由を獲得することができます。
肘を出してピアノを扱う奏法では手首の可動域は狭くなり、また打鍵も真下方向にしかできず、この真下方向の打鍵をするために打鍵後に指を真上にあげる動作が必要となってきます。この真上にあげる動作をする場合、指の独立が大きく関係してきます。
独立というのは腱の結合が大きく影響します。
もともと腱同士の結合が強い人はいくら練習しても上達しないわけです。

そしてこの奏法で演奏できたとしても、指を上にあげる動作により脳は動作に対して多く働き出し、その結果、耳は固く閉じ、音は総じて固くなり、良いことは何一つ起こりません。

構えを変えるだけで、打鍵は真下にはならず自由を獲得した手首の動きとともに、腕全体は鍵盤の上を自由自在に動くことが可能になるのです。

ロシアの大ピアニストであり大教師ゲンリヒ・ネイガウスも

「ショパンの生み出したこの配置は試金石だ」

と感嘆したのです。

小さい頃からずっと続けてきた弾き方ですから、間違った弾き方を自然だと脳が認識しても仕方がない部分もありますが、一度ショパンのピアニズムをご自身で体験されると弾きやすさの違いに驚き、今までやってきた指の練習がバカらしく感じると思います。

鍵盤は斜めから打鍵するのです。

音を磨く

声楽家は毎日のように発声練習をし自分の一音一音の響きにこだわり声の質を高めていく。
声楽家のように私たちピアニストも自分の声となる音を磨いていかないといけない。

ピアニストも同様に自分の音と深く向き合う必要があると思う。
多くのピアニストは、きちんとした発声が出来ていない音で曲を歌ってしまっているように感じる。
それは、ピアノは誰が弾いても調律された整った音が出てしまうため、音質というものに他の楽器奏者より鈍感なのだ。

だからピアノという楽器は積極的に音と音を共鳴させないといけない。
共鳴させるということを意識するには、一音一音が豊かな響きを持っていないといけなく、そうした音が出て初めて音同士はお互いに結びついていく。
響きがない音というのは、何の楽器でもそうだがハーモニーを作れないのだ。
ハーモニーというのは調和なのである。

この共鳴させる感覚というものは、和音を強弱のバランスで捉えている人には決して分からない感覚である。
ピアノは強弱ではなく、一音一音が持つ響きの量でバランスをとらないといけない。強弱で作る音楽はホールでは決して響くことはない。

一音一音が響きを持つ音というのは、中心となる音の核がありその周りを響きが覆っている音。
核になる音が重力を持っており、その周りを響きが覆う。

まさに宇宙を連想させる響きなのだ。

この音を一度でも体現できたら、曲解釈においてのほとんどの問題が解決していく。
この現象は今までの自分では考えられなかったことだが、良い響きで演奏すると自然と何も考えずとも曲が目の前に立体的に現れるのだ。
そこには以前あったような作為的な音は一音も現れず、まるで自分で弾いていないような感覚さえ覚える。

これを初めて味わった時、「再現芸術」という意味が理解できた。

まずは自分が信じてきた音の概念を捨ててみる。これはとても勇気がいることだが、同じことを続けていても上の世界には辿り着けない。

私も自分の音と向き合いながら、もっと上質な響き音楽を目指して自分を捨て続けたいと思う。

音を聴く感覚

奏法が身についてくると耳はピアノの鍵盤上ではなく空中に向けて解放されます。
この時に「聴く」ということを実感できるのですが、どうしても導入段階では分かりにくい感覚でもあります。

まだ「弾く」という感覚があるうちはイメージが手助けになることが多いです。

よく音を聴いて!

このようなアドバイスを生徒に送る教師は多くいます。
しかし、このアドバイスでは生徒は注意された一方の音にしか注意を傾けなくなります。

メロディーをよく聴いてというと、伴奏がおろそかになり、伴奏を聴いてというと、メロディーがおろそかになり、
その場所では、バランスが整ったとしてもそれは一過性のものでしかなく「聴く」という感覚ではありません。

「聴く」という感覚は、注意をどちらか一方に向けることではなく、全体を見渡したまま「遠近感」を感じることなのです。

この「遠近感」を感じることが「聴く」という感覚ですが、これは今まで意識したことがない方には難しいものです。
しかし次のようなイメージを持つと感覚を掴みやすくなります。

大きい教室がありそこに大勢の生徒が座っています。自分は教卓の前にいる先生です。
先生は教卓から一切移動することなく、生徒全員の言っていることを聴かないといけません。

これが聴く感覚です。

「右前の生徒」が先生に向けて話していると同時に、「左後ろの生徒」も先生に向けて話しています。
この両方の声を教卓から移動することなく聞き取る。これが聴く感覚であり遠近感なのです。

聴くという感覚は、何かに集中するということとは違います。全体に意識を張り巡らせたまま、いろいろな距離からくる音を聴き取るということです。
つまり聴くという感覚は、平面に存在するのではなく奥行きがあるのです。

ですので、
伴奏を弱く、メロディーを目立たせてというような平面的なアドバイスではなく、
伴奏は左後ろの生徒が優しく話していて、メロディーは右前の生徒が話している。

このように意識させるだけで音楽は奥行きを持ち響きは色を持ち始めるのです。
そして強弱ではなく、遠近感や響きの量で音楽を作ることができてくるのです。

耳の使い方を指導することは、音楽的な話をするのと同じくらい大切であると実感しています。