省略の芸術

先日、高畑勲が監督した映画「かぐや姫」を観た。
言葉では言い表せないくらいの感動を覚え、その世界観に芸術的な美しさを感じた。
この映画では背景が限りなく省略されており、登場人物が浮き立つような効果を最初から最後まで施してあった。
細部まで書き込まれた映像では辿り着けない美しさがあり、その世界観にホロヴィッツやソフロニツキーの芸術を思い出した。

全てが精巧に描かれてしまうと、人は想像力を失い感動ではなく驚くことしかできないのではないだろうか。
私が感動を覚える演奏も、全てがくっりきと見える写実的なものではなく、大切なものだけが浮き立ってくる演奏である。
自分が演奏する時にも、特にショパンやスクリャービン、ドビュッシーでは、背景をぼかすテクニックを多く使う。
これらの作曲家は、大切なものを浮き立たせるために背景をどう描くかを常に意識して演奏しなければ曲にならないのだ。

魔法をかけるためには、全てを人に見せてはいけない。
芸術は省略なのだと教えてもらった。

テクニック

最も弱い音から最も強い音の間に全てのテクニックが詰まっている  ゲンリヒ・ネイガウス

最もの後に(美しい)が入るのだが、この言葉の意味を今はすんなりと理解できる。
私の教室では、ピアノを美しい音で鳴らしきるところから学んでもらう。
鳴らしきるには、正しい体の使い方、楽器の扱い方ができていなくてはならず、とても高度な要求をしている。
しかし、これができるとピアノの本質を生徒自身も感じだし、楽器を扱う考え方が変わるのだ。

ピアノは特別な楽器である。指揮者と演奏者のどちらも一人でやらなくてはならない。
それもソリストだけではなく、オーケストラ全員である。

ここに主観的な要素が入ってきては演奏は上手くいかない。
指揮者の耳でピアノを扱える様にならないといけないのだが、その第一歩がピアノを鳴らしきることからはじまる。
この第一歩で指揮者の耳を手に入れなくてはいけない。

最上のフォルテッシモとピアニッシモが手にはいれば、道は大きく開く。

全てはテクニックであり、テクニックが全てを解決する。 ゲンリヒ・ネイガウス

ショパンピアニズムを教えだして

教室を開いてから1年ほど教えた生徒も出てきた。
1年間教えていると楽器の扱い方はかなり上手くなり、響きから芸術的なインスピレーションを受け取れだしてくる。
能力の差はあれど、その響きからは西洋音楽の伝統を感じとれだした。

私が生徒と同じ年の頃には到底弾けなかった曲をスラスラと美しく演奏している姿を見ては、ショパンから続いて来たピアニズムの素晴らしさを感じている。
演奏技術というのは才能ではなく、正しい方法さえ知っていれば誰でも習得できるものだと改めて思う。

最近感じるのは、このピアニズムは他者を気にせず自分と向き合わなくては達成できないということである。
物質が溢れて全ての人が同じものを持つ時代では自分の内面に目を向けることは難しいが、個人個人の心の豊かさが最も重要である。
人と比較しなくても心は豊かになる。人と共有しなくても心は豊かになる。
芸術に触れるということは、現代では置いてけぼりにされている自分の内面に目を向けるということに繋がるのだ。
しかし、習い事をしている段階ではこの本質までは辿り着けないだろう。
芸術は指の運動では生まれないのだ。

このピアニズムで奏でられる音楽は、何の抵抗もなく心の奥底に入り込んでくる。
ずっと前の思い出の様に、ずっと前から知っていた感情の様に、自然と心の底から湧き上がる。

生徒の演奏からそういう瞬間を感じ始めた。

音と向かい合う姿勢

誰しも美しい音を出そうと努力するが、美しい音を出そうとする瞬間には力みが生まれ音が硬くなっている。
小さな力みは自分の耳を閉じ、自分だけが美しい音を出している気になっていることが多々ある。

美しい音は、「出そう」と思ってはダメだ。
出そうと意識している段階では、必ず音に力みが出てくる。

曲が始まった瞬間に、美しい音という言葉は存在しなくなる。
曲の世界観に入っていれば美しい音ではなく必然性がある音になるはずである。
「美しい音」ではなく「美しい曲」という印象を与えなくてはいけない。それがクラシックピアニストのすべき唯一の仕事だと感じる。

次の瞬間に欲しい音を、曲が自分に求めてこないといけない。自分から求めている段階では駄目なのだ。
美しい音には必然性がある。

極論であるが、その必然性が感じられない曲は演奏するべきではないと思う。その曲は自分に合ってないと判断するべきだ。
全ての曲を演奏できる必要はない。もしも演奏できるのであれば、どの曲にも振り向いてもらえていないことに気が付いていないのだと思う。
八方美人ではいけないのだ。

リストはショパンのマズルカに対して次のように書いており、ショパンはその意見に賛同した。

マズルカは一曲ごとに一級のピアニストが一人づつ取り組むべきだ フランツ・リスト

真に美しい音というのは、自分に語りかけてくる曲からしか得られないのではないだろうか。

白鍵の魔物

小さい頃は黒い鍵盤は使わずに白い鍵盤だけ使い初歩を学んだと思う。
しかしこの白い鍵盤=白鍵には、ピアノが上達すればするほど魔物が住みだす。

私の教室では、体と楽器の扱い方を学んでもらうために私が考案した黒鍵を使った練習を1−2ヶ月ほど必ずしてもらう。
その理由としては、一番美しい音が鳴るからだ。
ショパンやドヴュッシー、スクリャービンの曲に黒鍵が多いのは、ピアノが美しく鳴ることを分かっていたからだ。

ではなぜ美しく鳴るのか。それは弾く側の意識にある。

1オクターブは12音に分けられるが、白鍵が7音、黒鍵が5音だ。
見たら分かるが、白鍵は隣がずっと白鍵である。
一方、黒鍵は隣に黒鍵がなく白鍵を挟んで黒鍵がくる。

ここが重要なのだ。

黒鍵を弾く時は、隣の音を気にしなくていいので何の怖さもなく打鍵できる。
しかし白鍵は違う。
知らず知らずのうちに「隣の音を弾かないようにする」恐怖心が生まれているのだ。
ほとんどの人は、白鍵では肘が硬くなり耳が鍵盤に近い位置に落ちてしまう。

試しにオクターブを白鍵と黒鍵で弾いてみるといい。いかに白鍵の時に体が固まっているか体感できるだろう。

私は、この恐怖心を無くしてもらう為に皆さんに必ず次の練習をしてもらっている。

まず弾く白鍵の両隣の音をあらかじめ下に押さえておき、黒鍵のような状態を作ってもらう。
(レの音を練習する時は、レの両隣のドとミをあらかじめ下に押さえておくということである。)
両隣が下に落ちている状態だと隣の音を弾く恐怖心は全くないので、そこで正しい白鍵の弾き方を練習してもらうようにしている。

白鍵の扱い方には気をつけなくてはいけない。
一番難しい調性はハ長調なのだ。